皆さんこんにちは。
もう九月ですが、ずっと真夏が続いているような暑さです。
また、先月は熊本地方に線状降水帯が大雨をもたらし、冠水や土砂崩れなどの被害が各地で出ましたが、皆様
のところは大丈夫でしたでしょうか?
雨が降らない日が長く続き、降ったら降ったで大災害…今までの丁度よく過ごしやすかった日本はもう無い
んですね。
お陰様で善教寺は無事…と思っていたら、北側の墓地が大雨で陥没し、周囲の墓石がこの穴に埋没していま
した。

ここは元々大きなクスノキが植えられていて、北側の隣地に越境していたんです。
これを善教寺再建の際に重機で伐根して埋戻ししたのですが、大雨で土が流れてしまったようです。

なので建築屋さんの重機を借り、自分で埋没した墓石等を引き上げました。

再度たくさんの土を敷き詰めないと、また穴が空きますね…というか、今後これら古いお墓も整理して
いかなきゃなー…です。
さて、今月の法語です。
「一」度「止」まると書いて、「正」という字になるのはどなたもご存知でしょう。
しかし、先月の法話に於いて「我ら凡夫に正しさは無し」と私は申し上げました。
この正しさについて、今月はもう少し掘り下げてみようと思います。
一度止まると書いて正しいという字になる…つまり、この字は「一」と「止」の組み合わせで出来ています。
で、「止」という字は「足」の象形文字で、「歩く」「進む」という動作を表すんです。
だから、足を停めるで「停止」です。
そして「一」は一直線を表す記号です。
なので実は「正」という字の語源は「町や城に一直線に向かって進み攻める」という意味なんですね。
意外だったでしょう?
つまり「正」とは、他者に戦争を仕掛ける、勝者が正義を獲得する、という意味合いだったのだそうです。
これを鑑みると、世界のいろんな所で現在も戦争は起きていますし、この日本も過去、戦争をしてきた経緯
があります。
一旦戦争が起これば、多くの尊い命が失われ、平穏な生活も一瞬で奪われます。
それでも戦争を仕掛けた側も、応戦する側にもそれぞれの正義、つまり「正しさ」があるようです。
殺し合い、奪い合い、破壊し合いが、戦争という名の下に「悪」が「正義」になる。
これを思うと、正しさとは何ぞや?という疑問が湧きます。
先日、知らない方から突然こんなメールが届きました。
「お経についての相談です。お経を読誦している時に不吉なことが思い浮かぶことがありますが、それが現実
になることは無いでしょうか?そのようなことが無いと自信を持ってお経を読誦したいので、教えて下さい」
…こんなご質問でした。
なので、私はこう回答しました。
「そもそも、不吉なこととは何でしょうか?」と。
例えば、道を歩いていて転んでケガをした際、同じケガでも「やっぱり不吉なことは当たった」とも考えられ
ますし、「この程度のケガで済んで良かった」とも考えられます。
ここに、考え方で不吉と吉という両対極が存在します。
という事は、どちらも正しいし、また正しくもない、というおかしな事になります。
私は今、高校の同級生達と、昔組んでいたバンドを還暦を機に再結成し、毎月スタジオで練習しています。
「世のオヤジ達に、歳を言い訳にしないでやりたい事をやり通せ!」を伝えることをモットーに、冗談では
なく、真剣に武道館公演とNHKの紅白出場を目指しています。(東京ドームではやらないそうです…)
ちなみに私はリード・ギター担当ですが、リハビリになかなか手こずってます。
で、ベース担当のメンバーがいきなり結構高い値段のベースを買う、と言い出しました。
しかもローンで!
他のメンバーは、「決意はわかるけど、もっと上達してからでも…」とブレーキを掛け始めましたが、もう
思い込んだら一直線のベース担当君は「嫁さんに内緒で絶対に買う!」と凄い決意です。
で、私は彼に「一度止まる、と書いて正しい、だぞ」とメッセージを送りました。
だってその「欲しい!」というベース、35万円もするんです!
世の中誰もが、自分は正しい、と思って生きています。
完璧では無いけど、でも間違ってもいない…そう自分で考えていることでしょう。
でも、その正しさの先にあるもの…その正しさは最上なのか…まではなかなか思いが巡りません。
先でも述べた通り、「悪」だったことが、世の都合で「正義」になるのが、このおかしな世の中です。
法律もそうです。
所詮、人=凡夫が考えた事ですから万能ではありません。
北海道で熊が出没し、畑を荒らし、人を襲っています。
そこで猟友会が呼ばれるのですが、ある時住宅街で熊に向けて銃を発射した猟友会メンバーが、銃刀法違反
となってしまいました。
なぜなら、法律では住宅街での銃の発射は認められていないからです。
でも、当人は住民の、はたまた自身の命の危険を察知して、最大限に注意を払って発射したのですが、これが
「違反」となったのです。
そこで北海道の猟友会はこれに反発して熊が出ても出動を拒む羽目に…すると行政と警察はそれでは困るので、
ルール、つまり正しさを都合で変更しました。
平和ボケとはこの事で、平時の中で安心して暮らしていると、有事の際に平時の理屈を持ち出すので、余計に
被害が広がるんです。
これは、東日本大震災の時に顕著に出ました。
私たちは、国という単位の中で法律に沿って生きています。
それはそれで大事なのですが、もっと大きく考えて、私たちは迷いの世界の中で、仏法によって生かされて
もいます。
仏法とは、仏さまの智慧ですから、何かの、誰かの都合でコロコロ変わる事はありません。
つまり仏さまの智慧は不変であり真実そのものです。
その教えに従って自分の命を自分らしく、自分のために生きればいいのに、なぜか余計な、おかしなものに
囚われて、「こんなはずじゃない、これじゃいけない」という自分と「でもそうしないといけない」という
二人の自分の狭間に居るんじゃないでしょうか?
浄土真宗で最も大切にされている経典で「仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)」というお経が
あります。
これはお釈迦さまが弟子たちに語った教えが書かれていますが、僕がいつも開いて拝読させて頂いているのは
下巻の後半です。
そこには、「世の人は…」とお釈迦さまが凡夫に対して相当なダメ出しと言いますか、ほぼ愚痴ともいえる
くらいの事が書かれていて、読めば読むほど「あぁ…自分のことだ…」と毎回反省させられるんです。
反省はするんですが、でも「またやってしまった…」なことばかり。
つまり、お釈迦さまは反論できない程の「正しさ」を厳しくも説かれているのに、自分はその正しさを
きちんと持つことができない…わかっていても…できない。
それが「凡夫に正しさは無し」たる所以なんです。
ですからせめて「自分の思う正しさは、本当に正しいのか」くらいはじっくり考えたい。
可能であれば、仏さまの教えに照らし合わせて、なんとなく曖昧に流すのではなく、きちんと自分の問いに
導きを得たい。
そこで、自分の凝り固まったおかしな「正しさ」を取り払って、広い視野を持つ。
よく「仏教とはなんですか?」と聞かれるのですが、私は必ず「トイレットペーパーやサランラップの芯から
世の中を除いているのが人間ですが、その芯を外して広い視野を持って生きる教え」とお答えしています。
でも冷静に考えたら、自分は間違ったことを「正しい」と考え、それを人にも教え、強いていたとしたら、
それはとても恐ろしい事です。
ですから…これは私見ではありますが…「正」しいと言う字は「町や城に一直線に向かって進み攻める」と
いう元々の意味ですが、「一」旦「止」まって、それが本当に「正」しいのか、よくよく考えるべき、という
ことを深く収めた字なのでは、と思っています。
これは特に現在の戦争当事者国の長に声を大にして言いたいことでもあります。
善教寺はまだ完全には完成してはいませんが、本堂も使えるようになりましたので、この仏説無量寿経に
ついて、皆さんと共に学んでいく機会を作れたらな、と考えています。
ところで、私がメッセージを送ったバンドのベース担当君、その後どうなったのかと言うと、彼はグループ
LINEで「買っちゃいました!」と新しく買った例の高額なベースの写真を送ってきました。
私が「奥さんの承諾は得たのか?」と聞いたら、「嫁さんには内緒」だそうです。
まあ、彼には彼なりの「正しさ」があるのでしょう…
でもいつかそれが奥さんにバレて、責められることのないよう、阿弥陀さまにお願いするしかありません。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)