皆さんこんにちは。
今年も早いもので、あとひと月で終わりです。
以前、歳を重ねるごとに時間が早く経過するように感じる「ジャネーの法則」という心理効果のことをここで
ご紹介させて頂きました。
そして自分なりにこのことを考え、なぜ歳を重ねる毎に時間の経過が早くなるのかがわかったような気がします。
それは歳を重ねると、どんどん分母が大きくなっていくからです。
例えば、5歳の子が1年を過ごすと5分の1ですよね。
5分の1は「1÷5」ですから、1÷5=「0.2」になります。
ところが、50歳の人が1年を過ごすと50分の1です。
50分の1は「1÷50」ですから、1÷50=「0.02」です。
歳を重ねれば重ねるほど、やらなきゃいけない事や考える事、そして思い出などがどんどん増えていきますから
それだけ頭も時間を費やし、頭も身体も多忙になるんでしょうね。
しかも若い頃に比べて何ごとも早く処理できなくなってくるから、余計に時間が掛かる…
ですから、50歳の人は5歳の子と比べて、1日が10倍早く過ぎるような感覚になるんでしょう。
これ、西守説ですので、どなたかもし詳しい方や、他の説がありましたら、どうぞご教示下さい。

 さて、ついに善教寺の再建が終わりました…と言いますか、まだ玄関ポーチ部分の飾りや細かな手直しが残って
いますが、本堂内部は法要が出来る形になりました。
ただ、地震で紛失したり破壊されてしまった仏具が数点欠けています。
これらは時間を掛けてでも少しずつ揃えていきます。
大切なのはご本尊と親鸞聖人の安置ですから、これを以て本堂完成と致しました。
つきましては、令和8年1月10日(土)に本堂完成お披露目を兼ねた、御正忌報恩講修行を実施致します。
関係者の皆さまには追っておハガキにてお知らせ致しますが、地震被災後、始めての善教寺本堂での法要です。
どうぞお参り下さい。
記念品贈答の準備の都合上、ご参加希望の方は12月26日(金)までに、善教寺へご連絡下さい。

また、当日都合が合わずお参り出来ない方は、10日午後~12日まで本堂を開放して御覧頂けるようにして
おりますので、お気軽にお参り下さい。

 尚、新しい善教寺は以前と比べて本堂が狭い事などから、大々的な落慶法要は行いませんこと、ご理解頂けまし
たら幸いです。

 本件の詳細は善教寺ホームページ・トップページのニュース欄でもお知らせしております。

  →善教寺・本堂お披露目、御正忌報恩講修行のお知らせ


 さて、まもなく初詣の時期になります。
皆さんは神社やお寺にお参りされた時、手を合わせてどんな事を願われますか?
「宝くじが当たりますように」
「志望校に受かりますように」
「病気が早く治りますように」
「健康で過ごせますように」
「世界が平和でありますように」
など、いろんな願いがあるかと思います。

 私は以前、僧侶になる前までは、よく伊勢神宮にお参りに行ってました。
しかも、一般参拝出来る門のさらに内側に入って、正殿に最も近いところで参拝させて頂いていました。
これを「御垣内(みかきうち)参拝」と言います。
それなりの初穂料を納めると、その資格を頂くのですが、ドレスコードもあり、正装でないと断られます。
多くの方達が門前のお賽銭箱前で参拝する中、私だけ神主さんのエスコートで特別に中に通され、さらに
ずっと奥で参拝しますが、その様子は一般参拝の方達にも見られていて、「あの人誰?」「凄ーい」とか、後ろで
ザワついてるのが聞こえます。
で、御垣内参拝を終えて外に出ると「あのー、皇族の方ですか?」とか、よく聞かれます。
いや、ただ初穂料を納めて年間パスポートみたいなのを頂き、それを門前の神主さんにお見せするだけなんです
けどね…
この「御垣内参拝」のことを教えてくれた人は、神社オタクといいますか、かなり詳しい人で、「鳥居をくぐった
ら、私語は慎む」「参道は真ん中は神様が通るので端を歩かないといけない」とか、まあいろんな細かな指導を
たくさん受けました。
確かに、神仏を尊ぶということは、お敬いの心ですから当たり前ですね。

 で、この人はこうも言っておられました。
「神様へのお願いは、己の利を願っても叶えてもらえないです。他の利を願うことが大切なんです」と。
今思えば「なるほどな」と納得します。
仏教でも「自利利他」を説きます。
これは「自らの利を以て、他を利する」ということです。
阿弥陀如来さまがまさにそのお手本なんですね。
親鸞聖人がこのみ教えを、ご和讃として伝えて下さっています。

   如来の作願をたずぬれば
   苦悩の有情をすてずして
   回向を首としたまひて
   大悲心をば成就せり 
            (正像末和讃)

 このご和讃の意味ですが、「阿弥陀さまは、生きとし生ける者全てを救う、と願われましたが、そのお心をお尋
ねするならば(如来の作願をたづぬれば)、この世で迷い苦しみながら生きる私たち(苦悩の有情)を決して見捨
てることなく(すてずして)、自らが大変な修行をされ、得た功徳を私たちに全て振り向けて救うことを第一と
されて(回向を首としたまひて)大いなる慈しみの心で一切衆生を救うという願いを成就されたのです(大悲心を
ば成就せり)」という内容です。

 わたしは、あらゆる仏さま方から見捨てられえた身です。
なぜなら、仏さまに成るにはそれなりの修行、苦行をし、そして煩悩を滅して悟りをひらかないと仏さまにはなる
ことが出来ないからです。
わたしのような凡夫は、苦行もおろか、修行もしません。
たとえ、したとしても続けられませんし、煩悩にまみれたままの身であります。
ですから、この世と縁が尽きた後の問題…これを後生の一大事、と言いますが結局は「地獄道」「畜生道」
「餓鬼道」「人間道」「阿修羅道」「天道」のいずれかという、迷い、苦しみ、そして命が尽きることに怯える
世界で生き死にを繰り返す、六道輪廻(ろくどうりんね)することになるんです。

 阿弥陀さまは、そんなわたしを大変哀れみ、生き死にの無い世界、つまり寿命の尽きることのない世界である
お浄土を作られ、そこに煩悩を抱えたままのわたしを仏として仕上げてお浄土に生まれさせる為に、大変長い長い
苦行をされ、その修行で得られた功徳を、ご自身にではなく、わたしに振り向けて下さったのです。
ですから、わたしの命は既に救われた身、後生の一大事という大問題を解決された、ありがたい命なんです。
親鸞聖人はこのように、もう「生き死に」を繰り返すことの無い道を「生死(しょうじ)出(い)ずべき道」と
して説かれ、この教えが今の令和の世にも届き、「お前はもう救われた身だぞ」とお示し下さっています。

 …これが「自利利他」。
自らの大変な努力で得た利を以てして、他を利する、ということなんですね。
しかも、阿弥陀さまは救いの対象であるわたしに、何の条件も付けられておりません。
逆に阿弥陀さまは、ご自身にとても厳しい条件を付けられたのです。
その条件とは「もし衆生を救うことが出来ないのであれば、私は仏には成らない!」と断言されていることです。
                                      (四十八願…仏説無量寿経)

 このように、阿弥陀さまはご自身に厳しい条件を課され、救いの対象であるわたしには何の条件も付けられて
いません。
ただ、たった一つだけ願われているんです。
「願わくは、どうか私のこの功徳を以て、平等に一切衆生を救うということを信じ、この世と縁が尽きた時と
同時に菩提心を起こして、お浄土(安楽国)に生まれますように」と。
これは、全てのお勤めの際、最後に頂く「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という言葉で
「がーんにーしーくーどぉぉーくーぅー」のところ…聞いたことありますよね。
阿弥陀さまの修行による功徳を回向(えこう)…わたしに回し向けて下さるお言葉なので、回向句(えこうく)と
言います。
そして、ここが阿弥陀さまのお救いのど真ん中なんです。
ですから、あらゆるお経や正信偈(しょうしんげ)などの偈文(げもん)の最後に、この回向句を頂くのです。
(一部、文言が異なる回向句もありますが、意味は同じです)

 今月の法語「私の願いを仏さまに聞いて頂くのではない 仏さまの願いをお聞かせ頂くのだ」はそういう意味。
あれこれ細かな願いでも、叶うか叶わないかは別として、仏さまに思いを聞いて頂きたいのは人情ですもんね。
ですから「あれこれ欲張って願うな」という意味ではありません。
大切なことは、わたしは「阿弥陀さまから願われた身」であることを心に刻み、その仰せに従うことなんです。
願われ、その願いを心から一点の曇りもなく信じ、それを素直に歓び、感謝することが「他力の信心」や
「阿弥陀さまより賜る信心」となるのです。
信心賜ったのであれば、歓びと感謝に溢れ、大きな声で自然に「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てきます。
だって、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀さまに帰依します、わたしの命をお任せします」という意味ですから、
阿弥陀さまからの願いに対して、一心に「仰せの通りに致します」とお返事するのは当たり前。

 で、そのお念仏は自分の声ではありますが、我が耳にも聞こえてきますよね、「南無阿弥陀仏」って。
聞こえてくるのですから、わたしの声を借りて阿弥陀さまがお喜びになってお返事して下さっています。
「任せよ、この阿弥陀に」って。
そうなると、大きな声のお念仏は止まりません。
これが「阿弥陀さまより賜る信心」「阿弥陀さまより賜るお念仏」「御恩報謝のお念仏」となるのではないで
しょうか。
これこそが「念仏者として生きる」命です。

   十方微塵世界の
   念仏の衆生をみそなわし
   摂取してすてざれば
   阿弥陀となづけたまふなり
           (浄土和讃)

 このご和讃も、念仏者として生きるわたしを「念仏の衆生」として表し、「ありとあらゆる世界の、念仏の衆生
を御覧になられた阿弥陀さまは、その全ての者を救いの手に取り、決して捨てない。これこそが阿弥陀という
仏さまの本領であり、阿弥陀と名付けられた由縁である」という意味です。
このご和讃は年忌法要でお勤めされる「佛事阿弥陀経」の中でも読まれます。

 仏さまの願いをお聞かせ頂く→その仰せをしっかり聞き刻み一心に信じる→その結果お返事としてわたしの
お念仏が出る→「阿弥陀さまお任せします」というわたしのお念仏に対して「我に任せよ」と阿弥陀さまからの
お返事を聞いて、救われた命を生きていく。
…ありがたい命、というのはそういう命なのでしょう。
後生の一大事、大問題を解決されたまさに有難い、有難い身ですから、日常の雑多な嫌なことや辛いことなんか
全然問題じゃなく、その有難い命を目一杯生きられるのですから、まさにお念仏が止まりませんね。
まことに、感謝溢れる御恩報謝のお念仏にございます。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一 心(西守 騎世将)







 


 
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