皆さんこんにちは。
四月はこのサイトでの法話をお休みさせて頂きました。
普段楽しみにされている皆様には大変申し訳ありませんでした。
サボっていたのではありません。
言い訳になってしまいますが、普段の仕事に加え、実はこの度新しく大型のヘリコプターに乗る事になり、その訓練
と国交省の実地試験が四月にあり、その為に時間が取れなかったのが本当のところです。
大型…と言っても8人乗りで、ジェットエンジンが二つ付いた機種です。
わかりやすく申し上げますと、ドクターヘリで使用しているのと同じ機種で、私は今までエンジンが一つの機種しか
免許を持ってなく、二つ以上のエンジンを搭載した機種はまた別の免許が要るんです。
還暦を過ぎての新しい勉強は大変でした…一つ覚えると二つ忘れる…そんなハンデもありましたが、おかげさまで
合格を頂き、やっと落ち着いた時間を取り戻せました。
さて、今月の法語です。
皆さん「運命」ってよく聞く言葉ですよね。
でもこの運命、どちらかというと自分ではコントロールできない、偶然、はたまた人知を超えた大きな力によるもの
みたいなイメージありませんか?
でも私はそうは思っていません。
運命もそうですが、「運の良し悪し」…運が悪かった、運が良かった…は偶然でも何でもないんです。
そもそも「運」という字は「はこぶ」という意味です。
誰が何を運ぶのかというと、自分が自分自身を運んでいるんです。
「はぁ?」って思われるかもしれませんが、要は、運が良かったのも、悪かったのも、全ては自分のしてきた事の
積み重ねがそのまま今の現実を作っている、という事なんです。
寝る間も惜しんで遊びも我慢して、人よりたくさん勉強した人が、難しい試験に合格した…これって、偶然でも何
でもないですよね?
また逆に、暴飲暴食して運動もせず、毎日「朝からダイエット」と言い続けて、その実なにもしないでいる人が、
本人も望んでいないメタボな体型になり、加えて高血圧や糖尿病などの生活習慣病になってしまうのは、偶然でも
何でもないです。
つまり、望もうと、望まざるとにかかわらず、今のその現実は他の誰でもない、自分自身が築いてきたんです、と
いうことです。
ですから「運が良い」というのは、そこまでの考え方や行いという運びが良かったから、運が良い。
「運が悪い」のもそう。
そこまでの行い、考え方が悪かったのだからそのまま、運が悪い。
ですから偶然ではない、というのもおわかりになるかと思います。
それを全てが偶然で自分ですらコントロールできないものなんだ、と考えてしまうと自己統制や自分を律するという
ことも欠けてきますし、またそう考えた方が「仕方ないね」と自己のしてきたことは棚に置きやすくなります。
いや、そんなことはしてきたつもりは無い…そう考えるのも人でしょう。
しかし、知らず知らずに人を傷つけ、人に迷惑を掛けて…いや掛けまくっているのが人なんです。
そこに気付かないから、そんな事は無い!と省みようとしないから、「運」は偶然と考えるんです。
仏教は全て因果と縁起で考えます。
何かしらの種となる「因」が存在し、そこに「縁」が起こって物事が動き出し、「果」が目の前に現れる。
とてもシンプルですね。
いや、全てとは言いません。
どんなに素晴らしい因と縁が重なっても、人の力ではどうしようもない「果」が現れることもあります。
だからと言って、自分の人生を「偶然」にまかせて…いや、偶然という都合にして生きるのも違うと思います。
それでは納得いく人生にはならないでしょう。
水の千流万派は、一源に始まる。
木の千枝万葉は、一本に出ず。
人の千酬万応は、一心に発す。
この文は、今から400年前に書かれた呻吟語(しんぎんご)という中国古典の一文です。
呻吟とは、苦しさにうめき声を発する事を表すのですが、この世において、迷い苦しみながら生きる衆生に
向けて書かれた書です。
語訳は「一つの川はたくさんの水の流れから成っているが、元はたった一つの源流から流れている。
木にはたくさんの枝葉があるが、これも元は一本の幹から出ている。
人間にもいろいろなことが起こるが、それも元は一つの心から発して起こる」ということです。(一部略)
私たちはどうしても物事の根源よりも枝葉末節なことに目が行ってしまいます。
「なぜそうなったのか?」という「因」はあまり考えず、目の前の「果」を見て判断しがちです。
しかし「因」という自身の根本の考え方が、誘惑や怠惰、はたまた大いなる目標や信念などの様々な「縁」に
よって運ばれ、「果」という今の自分が在るのであって、今の自分は決して偶然に在るわけではないんです。
運命とは、自分自身の命の運び。
ですから運び方一つでどうにでも変わる、と思いませんか。
でもその運命に欲が絡むとまた「もっと、もっと」と望み、苦となっていきます。
さらにそれが「欲深さ」と気付かないのが怖いところです。
今日も生かされ、感謝に溢れながら生き抜いていく。
真にそれに気が付けば、自身の命の運び方が大きく舵を切られ、違った明るい景色へと変わっていく…
それこそが「命運」「運命」なのだと思います。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)