皆さんこんにちは。
いよいよ梅雨入りですね。
これから2ケ月ちょっと、雨が続きます。
梅雨は予定が立て辛いし、屋外イベントは軒並み中止。
また洗濯物は乾かないしカビや食中毒の心配も増えてきます。
しかし、この梅雨は別名「めぐみの雨」でもあり、農作物を大きく育てる為に必要な雨でもあります。
梅雨は嫌…でも水不足も困る…ホント、我ら凡夫はわがままで身勝手なところがあります。
現実を受け止めてそれに則して生きて行く…お釈迦様は「世の中は一切思い通りにならない(一切皆苦)」
という教えを残されました。
現実を受け入れず、自分の都合で物事を考えると、ただ辛いだけになるということです。
さて、今月は法語ではありませんが、昔から言われている言葉をここで少し深堀りして考えてみたいと思い
ます。
この場でも何度かお話させて頂いてきていますが、私はついに還暦を迎え、60歳になりました。
得度し、僧侶になったのが52歳でしたから、あっという間の8年でした。
赤いちゃんちゃんこ代わりに、真っ赤なハーレーダビッドソンの一番大きなバイクを買いました。
その為に自動車学校に通い、大型バイクの免許も取りました…もちろんその時は私が一番年上でした。
で、昔は高校時代の仲間とバンドを組んでいて、私はリードギター担当でしたが、その仲間から「還暦を機に
またバンドやろうぜ!」という事になり、先月から集まってスタジオで練習も始めました。
当然、長年弾いていなかったギターも久しぶりに弾き始めました…
私の赤いハーレーダビッドソン、重さが370kgもあります。
停止時に少し傾くとあっという間に倒れそうになります…いわゆる立ちゴケというやつですが、筋力には自身
があった…はずですが、ガレージからの出し入れや信号待ちでは立ちゴケしないか常にヒヤヒヤ。
実は一度立ちゴケしました…坊守を後ろに乗せて走り、とある駐車場に駐めようとしたら、気を抜いていて
いっきに右にバイクが傾きました。
全筋力をマックスにして踏ん張りましたが、元々重いバイクに加えて坊守の体重も加算され、そのままそっと
倒れてしましました。
起こすのが滅茶苦茶大変でしたし、何せ派手なバイクがカッコ悪く立ちゴケしたもんですから、みんな私の
ことを見ています。
超恥ずかしかったです…
皆さん、CM関節炎ってご存知ですか?
手の親指の付け根の関節が長年の酷使で炎症を起こし、なかなか治らないんです。
なぜ治らないかと言いますと、手の親指は最も重要な指ですので、使わないことが無いため、日常の生活や
仕事で結局酷使が続きますから、ずっと痛いままなんです。
で、私は両手の親指がCM関節炎になり、年々悪くなってきています。
その手でギターを弾き始めましたので、常に痛さを耐えての苦行…
長年弾いてこなかったギター技術のリハビリのはずが、逆に手をどんどん痛めていくという矛盾。
皆さんもそうだと思いますが、若い時ってこんなこと、夢にも思わなかったですよね。
「自分は生涯現役!」って思い続けてきましたが、それは健康で身体が自由に動くこと前提です。
その前提が当たり前と考えていた若い頃、怖いものは何もなく、ただひたすら夢と希望を持ってがむしゃらに
突っ走ってきました。
一つのことに没頭すると結果が出るまで止めない性格ですので、良くも悪くも必ず何かしらの結果を出して
きましたが、それが「自分はやればできる!」という自惚れを招き、時には調子にも乗り、多くの敵を作り
自分の考えが一番正しいと思って人の話を聞かず、やりたい放題でした。
子供の頃を含め、若さとは、ある意味真っ直ぐでエネルギーもあり、失敗しても何度でもトライできます。
しかしその反面、自分の過ちに気付かず、また後先のことも考えず、「今」だけを考え「今」を基準として
行動しますので、どうしても失敗が多くなりますが、またその失敗から学べるのも若さです。
子供の頃から分別を持って生きる人はいません。
人は幼いころから兆戦し、失敗し、学び、そしてまた挑戦…ということを繰り返して皆大人になります。
これらの経験から分別が出来、それに伴った言動が出来るんです。
なので、子供が失敗しても単に叱るのは若い人の成長を邪魔し、また反発を招くだけ。
そして叱る本人は若い頃大人から叱られ、育てられてきて今がある、ということを忘れがちでもあります。
そんな若さも一時的で、やがて歳を重ねて分別が出来るようになった頃、やがて「ここが痛い」「身体が
重い」…などが出てきます。
老眼で字も見えない、なんて若い頃全く理解できませんでしたが、老眼鏡が無いと何もできない今になれば
「若い頃どんなに元気であったとしても、人は誰しもこうなっていくんだ」ということをしみじみ感じます。
もっと歳を重ねると、歩くのにもやっとで、走るなんてとんでもない…ってなって行くんでしょう。
「歩行者信号が青のうちに横断歩道を渡り切れるか…」なんて心配、若い頃には微塵も考えなかったのに
そうなるのは時間の問題です。
やがて病気を患い、歩くことだってままならない…そんなことも起こります。
だから、お年寄りが早く動けなくたって、物事を忘れたって、笑う事は出来ません。
だって、人ごとではなく、自分も遅かれ早かれそうなるのですから。
「18歳と81歳の違い」という、まあ笑い話なんでしょうか…こんなのがあります。
少しだけご紹介します。
・人生につまずくのが18歳 小石につまづくのが81歳
・心がもろいのが18歳 骨がもろいのが81歳
・知らないことが多いのが18歳 忘れたことが多いのが81歳…
まだまだありますが、これを見て皆さんはどう思われましたか?
私はこれを最初見た時、お年寄りを小バカにしてるように思えてあまり笑えませんでした。
実はこれをお寺の掲示板として堂々と掲げていたお寺があります。
そのお寺だって81歳の御門徒さん、檀家さんだっているはずなのに、よくこんなの掲げられるな?と思い
「81歳に失礼じゃないですか?」と意見したことがあります。
しかし冷静に考えれば、18歳も81歳もそれぞれ特徴があって、18歳で若いからって不完全でもなく、また
81歳だって経験豊富であっても実は完璧ではない。
つまり、人の短い一生に於いて何歳であってもそれが「人」であり、長所短所と区分すること自体が凡夫の
余計な計らいなんだな、と私は気付きました。
若いからって上から見下し、何かにつけて叱るのはエゴです。
お年寄りだからって、思うように動けなかったり、忘れることが多いからって、それを笑うのもエゴです。
なぜなら、子供を叱り、年寄りを笑うその人も特別なんかではなく、同じ道を歩んでいるからです。
一切皆苦(いっさいかいく)…お釈迦さまがその教えを残されたのは、何かにつけて思い上がり、自分だけは
特別とうぬぼれて人のことをとやかく言い、笑ってバカにするどうしようもない私たち凡夫は、いろんなこと
を自分の思い通りにしようとあくせくするけども、結局世の中は自分の思い通りになることは殆ど無い…
それを必死に抗ってなんとかしようとするから結局自分が苦しむのだ、ということを凡夫に知らしめるため。
人は人らしく、あるがままに受け入れ、自身が生かされていることに感謝出来れば、肩の力が抜け、もっと
楽に日々を過ごしていけるのではないでしょうか。
人のことをとやかく言う傾向が多い世の中になりました。
そう言われないように余計な神経を使い、人の評価を気にし、更に疲れる日々を送る…
そんな人生、望んでいる人は誰もいないと思います。
だからこそ、自分こそは人の評価をすべきではないんですね。
特徴は長所でも短所でもありません。
区別、分別される前に、人は人なんです。
ある意味、こうやって区別、分別というグレーディングする風潮が、敬う心を消していくのかもしれません。
よくよく、考えるべきことですね。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)