皆さま、健やかに新年をお迎えのことと存じます。
本年1月10日は、いよいよ再建された善教寺の落慶法要があります。
まだ若干ですが空席はありますので、参加ご希望の方はお早めに善教寺までご連絡下さい。
さて、昨年の漢字は「熊」でした。
最近よく人から「熊本に熊はいないのか?」聞かれます。
まあ、阿蘇にある熊牧場「カドリー・ドミニオン」は例外として、野生の熊が出た、とは聞かないですね。
そもそも「熊本」は「隈本」という字であり、熊とは関係がなかったそうです。
それを武将・加藤清正が「勇猛さをイメージさせる為」として「隈」を「熊」に変えた、という説があります。
その勇猛なはずの熊が獰猛となり人を襲っています。
そして冬眠しない熊まで現れました。
熊や猪は食べるエサが無いから市街地にまで出て来ていますよね。
エサが無いのは猛暑のせいだと言われていますが、その猛暑の原因は地球温暖化であり、地球温暖化の原因は
結局「人」が直接要因というのが定説。
熊や猪は突然現れたのではなく、元々いた動物。
どんどん森や山を切り開いて人が野生動物の居場所を失わせ、更に自分たちの利便性の為に自然を破壊し、
結果猛暑を招いて熊や猪が人里に出てきて人が襲われ、農作物を荒らされ…まさに因果応報だと思います。
少し話は飛びますが、2023年5月25日、長野県中野市でサバイバルナイフを持った男が近隣に住む女性二人
を刺し、通報で駆けつけた警官二人を散弾銃で射つという、痛ましい事件が起こってしまいました。
これがきっかけで、警察は銃所持に関する法律をかなり厳しくしました。
これを聞けば「当たり前」だと思われるかもしれませんが、この国で鉄砲を所持する許可を取るのは元から
無茶苦茶厳しいんです。
厳しく執拗な面接があり、身辺調査を徹底的にされ、公安委員会が「この人に銃を持たせても問題ない」と
認めて初めて、銃の所持許可が与えられます。
ご存知の方も多いですが、私もこの銃所持許可証を持っています。
私は殺生はしませんので、クレー射撃の競技専用です。
(猟をするには、別途【狩猟許可証】が必要ですが、私は持っていません)
そして国体を目指して公式戦にも出場するので、その為に許可をもらって予備銃も所持していました。
なにせ、大事な決勝戦で銃の調子が悪くなり撃てなくなったらこれまでの努力が無に帰すからです。
なので、散弾銃を2丁持っていました。
そこへこの法規制強化です。
昨年、銃所持免許の更新だったのですが、手続きの中で警察から「法律が変わったので予備銃の所持は
認められない」と言われました。
「いや、あなた達が許可を出して予備銃を持っていたのに、それは納得できない!」とかなり抵抗しました
が、結局「銃を減らさないと免許更新できない」と半ば脅され、結局予備銃は廃棄処分に。
(銃砲店に売却も出来るんですが、古いので値が付かなかったです…)
この厳しい洗礼は全国の銃所持者にも当然降りかかります。
何十年も猟をしてきたベテランの人達も、あまりにも規制が厳しすぎて、銃免許そのものを返納してしまう
人達が続出して、結局ハンターも激減。
そこに、この熊騒動勃発です。
そしたらまた都合で規制を緩めるんでしょうか…
この国の特徴として、一人のルールを破る者の為に、新しく厳しいルールを作り、これによって他の多くの
ルールを真面目に守っている人たちが不便や不利益を強いられることです。
結局、法律って万人の為に作られているようで、その実、必ず誰かの都合に沿わせたものなんですよね。
これが仏さまの教えである仏法と人の作る法律との大きな違いです。
さて序盤から少々愚痴っぽくなってしまいましたが、実はお釈迦様もその教えの中でちょっと愚痴っぽく
言われているところがあるんです。
基本、その「教え」とは経典、つまりお経です。
お経とは、お釈迦様の教えをその弟子たちがまとめたものなんです。
キリスト教の聖書と同じですね。
で、お経を聞くとありがたく感じる人もいれば、なんか特別な…人によっては不気味で恐ろしく感じる人も
いるかと思います。
善教寺が地震で全壊してしまい、私は善教寺再建の為早急に僧侶になるべく浄土真宗で最もよくお勤めされる
「正信偈しょうしんげ」を暗記し、本願寺の僧侶として得度しても良いか?という試験を本願寺熊本別院で
受けることになりました。
そして試験前日に愛知から熊本入りし、夜にビジネスホテルでその正信偈の練習をしていたんです。
するとホテルのフロントから「他のお客様から、お経が聞こえてきて怖い、と苦情が入りました」と電話が
ありました💦
なんか失礼な話だな、とは思いましたが、それは単純に理解が間違っているからです。
お経というと「お祓い」とかの怖いイメージが先立つんでしょうけど、
それは違います。
あくまでも仏さまの教え、つまり仏さまの智慧をお聞かせ頂くのがお経。
ですから何も僧侶だけがお経を読誦(どくじゅ)するわけではなく、誰でもお経を読んでいいのです。
すごくシンプルに言えば、お経とはお釈迦様からの今を生きる私たちへのテキストであり、それを読ませてよく
理解し、その教えに沿った生き方をしていく…がお経。
キリスト教の聖書も似たようなものですから、聖書を漢字にしてその漢字を音読みすれば、同じお経になるん
です。
逆に、仏教のお経を現代語に訳して今の言葉で読めば、まんま聖書みたいになるんです。
話が横に逸れましたが、浄土真宗では「お経」と呼ばれる経典は
・仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
・仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)
・仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)
の三つしかありません。
あとは「偈文(げもん)」と呼ばれるお経の中の言葉を抜き出して詩句形式にしたものです。
浄土真宗でよくお勤めされる正信偈や讃仏偈、重誓偈も「偈」と付きますので偈文の一つで、厳密にはお経
でありません。
そしてこの三つの経典の中で最も重要なのが「仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)」であり、
「大経(だいきょう)」とも呼ばれ、親鸞聖人はこれを「真実の経」とも呼ばれています。
この仏説無量寿経には上巻と下巻があり、下巻の後半、「釈迦指勧 浄穢欣厭(しゃかしかん
じょうえごんえん)」のところで、お釈迦さまは愚痴っぽく教えを説かれています。
(註釈版聖典 五十四頁~…こまかくてすみません、経典から引用する場合は、必ずその出拠をこのように
明らかにして、法話者が勝手に想像や自分の意見で語っているわけではないことを示さないといけないんです)
ここではこのように語られています。
仏がたの優れた智慧による教えがあるのにこれに気付かず、世間の人々はまことに浅はかであって、みな急が
なくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を
立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな
金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き
苦しみ、後先のことをいろいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがない
のである。
(中略)
こういう人々は心がおろかであり、頑なであって、仏の教えを信じず、後の世(死んだ後)のことを考えず、
各自がただ目先の快楽を追うばかりである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、いかりに狂い、
財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの
世界に生まれて苦しみ、いつまでも生まれ変わり死に変わりし続ける。
何という哀れな痛ましいことであろうか…
…これは、お釈迦さまが自らの命を懸けて仏さまの教えを説いているのに、それが伝わらず、理解されず、
その為に余計に自ら苦しんでいく生き方をし続ける人たちのことをとても残念に思い、嘆いているんですね。
かなり短く抜粋していますが、こんなこと…聞いていてかなり耳が痛くなることが結構なページ数にわたって
説かれています。
人によっては「余計なお世話だ!ほっといてくれ!自分は自分の人生を自由に謳歌して楽しんで生きるんだ!」
という方もおられるかと思います。
それは否定しません。
その方の生き方ですので、そこに良し悪しはありません。
でも、お釈迦さまはちゃんとそれをわかった上で、このように説いておられます。
なぜなら、「こんなやりたい放題、したい放題でいいのか…」とやがて人は何かの機に考え始めるからです。
それは心に刺さる大きな出来事があったり、あるいは自分が病に冒されたり、または肉親が亡くなったり、と
命に係わる何かしらの出来事などで、快楽や勘違いの自由を求めてきた自分の考えが本当に正しかったのか?
という問いが出てくるからです。
そこで始めて、これらの言葉の意味が心に入ってくるんでしょうね。
「水を飲まない馬には、水をやらない」という言葉の通り、求めていないのにそれを押し付けたって、ただの
苦痛でしかありません。
でもやがて喉が渇き、水を求めた時に飲む水のありがたさ、美味しさを知るんです。
ですから、言い換えれば「仏法を聞かない人には、仏法を聞かせない」でしょうか。
でもやがて自分が苦しんだ時に仏さまの声、仏法を心の底から求める時が来ます。
それは人によって異なります。
でもその時こそが、真に仏さまに出会える瞬間なんです。
今月の「失敗の連続をやめてしまうと、最後に本当の失敗をする」という言葉ですが、人は常に失敗をし続けて
成長していくものです。
言い換えれば、成功より失敗の方が遥かに多い人生を歩むのが、我ら凡夫です。
でも、その失敗の中にたくさんの気付きがあり、どこかで「何が一番重要なのか」を知る時が来ます。
本当の自分にとって最も重要なこととは、目先の勝利、名誉、財産、快楽などではなく「わが命の行先」です。
失敗の連続という苦悩の命を生きていくと、その先に「仏さまの教え」が見えてきます。
そこで仏さまに出会い、救われたことを知り、この命を全うした先は、目先の勝利、名誉、財産、快楽のなんか
より比べ物にならない、想像もできない楽しみが用意されていることを知るべきです。
ですから、失敗しないように、楽に要領よく、ばかりを求めて生きていくのは、最も大切なものに背を向けて
生きるようなものです。
ですから「最後に本当の失敗をする」なんです。
誰もが苦悩に満ちた命を生きています。
いろんな心配や患いごとに振り回され、常に迷い続けています。
そしてどこかで救いを求めます。
その時、「大丈夫。もう救ってあるよ。だからあなたはあなたらしく、そのまま生きなさい」と阿弥陀さまは
「南無阿弥陀仏」というお念仏でお聞かせ下さり、いつもそう語りかけて下さっています。
決して一人ぼっちじゃない。
決して不幸なんかじゃない。
実は既に救われ、失敗の連続の人生の中で、実はちゃんとお育て頂いている、幸せな身であることを知る。
本当にありがたく、嬉しい人生だったんですね。
皆様にとって、健やかに、そして常に阿弥陀さまと一緒に歩む人生の喜びあふれる年となりすことを心から
念願しております。
本年もどうぞ善教寺を宜しくお願い致します。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一 心(西守 騎世将)