さて、今月は法語ではありませんが、とても大切な事をお伝えさせて頂きたいと思います。
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたく
いただきます」というのは、浄土真宗本願寺派の「食事のことば」というもので、食事を頂く前に必ずこの
ことばを言いいます。
私はお得度する際にこのことばを知りました。
私はその中で「多くのいのち」と「このごちそう」ということばにとても重い意味があると考えています。
まず、普段当たり前のように頂いている食事は、単なる食料と思いがちですが、その前に全て動物や植物の
「いのち」なんです。
私たちは他のいのちを頂きながら自分のいのちを繋いでいるんです。
浄土真宗は他の宗派と違って肉食を許されています。
その理由は「殺生」は動物だけの話ではなく、植物も含まれるからで、動物を食さなければ殺生ではない
という考えに偏りやエゴがあるからだと聞きました。
従って、全ての殺生を避けるのなら、私たちは何も食べるものが無く、生きていけません。
ですから、植物でも動物でも、いのちとして心から感謝して頂くのです。
以前、屠殺用の大きな機械に挟まれて、これからいのちを奪われる直前の牛の写真を見た事がありました。
牛は怯えるでも暴れるでもなく、その目は「今から殺されるんだ」という事を悟ったような静かで澄んだ
目をしていました。
その写真を見てから、私はしばらく肉食できなかったです。
私は焼肉は好きですが、今でも焼肉屋さんに行くと、あの牛の目を思い出します。
このわたしの為にいのちを差し出してくれた…そのいのちは私の身体の一部に変わり、また生き続けていく…
そう感謝しながら頂かないと、会ったことも見たこともない牛ですが、最大の敬意と感謝を込めないと
申し訳なくて頂けません。
ですから、出された食事を平気で残すのはいのちへの冒涜だと思います。
以前、善教寺一心庵の掲示板に「目の前にあるものは、食料ではなく命だ。簡単に残すな」と書いた事が
あります。
これをFacebookの「お寺の掲示板」という所に投稿しました。
いのちを頂いている認識を持って欲しかったからです。
しかし見知らぬ人から「別に残してもいいと思います。そういう押し付けこそお釈迦さまが嫌っていたのでは
ないですか?」と反論がありました。
…
ちょっと何言ってるかわかりませんが、まさに「いのちではなく食料」というエゴイズムだと思います。
それに「お釈迦さまの教え」は経典、つまりお経でしかわかりません。
でも「食べ物は平気で残して良い」などという教えは、どの経典にも書かれてはいませんし、お釈迦さま
はあらゆるいのちに対して、最大の敬意を持たれていた方です。
こういう考えが昨今のフード・ロス問題をどんどん生んでいるのだと思います。
最近は減りましたが、テレビで「大食い選手権」の番組が時々流れます。
たくさん食べられる人が、おいしくたくさん食べるのは別に良いと思います。
しかし「どれくらいの時間でどれくらい食べられるのか」をなぜ競わないといけないのか、に大きな疑問が
あります。
ただのエンターテイメントの為に、差し出された大切ないのちをそのように扱うのはまさにいのちへの
冒涜でしかないですね。
ですから、私たちが頂いているのはただの「食べ物、食料」ではなく、私たちの為に犠牲になってくれた
「多くのいのち」であることをしっかり認識すべきです。
そして次に「ごちそう」という意味です。
ごちそう、と言うと「美味しそうで豪華な食べ物」と思われている方も多いかと思いますが、本来の意味は
違います。
「ごちそう」は漢字で「御馳走」と書きます。
御馳走の「馳」は「かける」という意味です。
急いで来たことを「馳(は)せ参じる」とも言いますよね。
そして「走」はそのまま「走る」という意味。
「御」は尊敬の意味で付けられる漢字。
つまり、「御馳走」とは、わたしの為に多くの方々…飼育者の方々や生産者の方々、運搬してくれた方達
そして調理してくれた方達が一生懸命かけ回り、走り回って頂いたからこそ、わたしの為に食事が用意された
ということなんです。
それが御馳走。
決して豪華な食べ物だけを指す言葉ではないんです。
だから食事を頂いた後にその全ての方々に感謝して「ごちそうさまでした」と手を合わせるんです。
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、
ありがたくいただきます」の深い意味がおわかり頂けましたでしょうか。
そして、食事の終わりには「尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
おかげで、ごちそうさまでした」と言います。
「尊いおめぐみ」とは、先に申しました多くの犠牲になってくれた「いのち」のことです。
「御恩報謝につとめます」とは、こんな煩悩まみれの凡夫であるわたしをお救い下さった阿弥陀さまの御恩に
報いて感謝する生き方をしてまいります、という決意です。
美味しい、まずい、というのは凡夫の嗜好です。
そんなことより、食事を頂けることは当たり前ではなく、とんでもなく幸せであることを深く感謝し、多くの
犠牲の上に「わたし」という人間は生かされている自覚を持つことが大切ですね。
以前、若いヘリコプターの訓練生数人を連れて焼肉屋さんに行きました。
「今日は私が支払うから、食べたいだけおなか一杯食べなさい」と言ったら、まあ若い子は見ていて気持ち
いいくらい食べる食べる。
そこまでは良かったのですが、どんどんオーダーしてテーブルにお皿が乗り切らなくなった頃、お肉も焦げる
ようになってきました。
やがて、それぞれが「もうおなか一杯で食べられないです」と言い出し、自分のおなかをさすってます。
でもまだテーブルの上にはさっき頼んだお肉がたくさん残ってます。
さすがにイラっとして「やっぱり今日は残した奴の支払いだ」と言ったら、皆慌ててまた食べ始めました…
おなか一杯のはずなのに。
ついに食べきりましたが、「しばらくは焼肉はいいや…」って、つぶやいてます。
何でもかんでも「当たり前」に思ってると、やがて感謝も無くなってきます。
そして「もっと、もっと」という際限ない欲にまみれていきます。
それこそが不幸の始まりなんです。
多くの人は幸せを望みながら、自ら不幸の道を辿っています。
「少欲知足」という言葉がありますが、これはいかに自分が恵まれて幸せな境遇かを知る大きなヒントです。
タレントの明石家さんまさんが座右の銘としてよく言われている「生きているだけで丸儲け」という言葉も
あります。
これはテレビ番組でも放映されたのでご存じの方も多いかと思いますが、1985年8月12日、東京羽田空港発
大阪伊丹空港行きの日本航空123便が御巣鷹山に墜落する日本の航空史上最悪の事故が起こりました。
当時の明石家さんまさんは、大阪と東京を行ったり来たりの生活で、実はこの日本航空123便をいつも利用
していたそうです。
そしてこの8月12日も、さんまさんは123便に搭乗する予定だったのですが、スケジュールの都合で前乗りの
為、たまたま別便で大阪入りしていました。
そして事故が起こりますが、この便には当時の国民的大スター・坂本九さんも搭乗されており、残念ながら
帰らぬ人となられました。
その坂本九さんも子供の頃、疎開の為に列車に乗っていたのですが、その列車が大事故を起こし、自分と
母親の乗っていた車両だけ無事で助かったそうです。
そこから自分がどんなに辛くてもいつも笑顔でいる、と決めて生きてこられたそうです。
さんまさんにとっても、そんな坂本九さんは尊敬する憧れの人でした。
そんな経験から、人間生きているだけで丸儲け、という言葉を座右の銘とされているそうです。
多くの人が、生きているのは当たり前と考えています。
しかしそれは違います。
私は、人は何かしらの役割を担ってこの世に、しかも「人」として生まれてきたと考えています。
なぜなら、人間として生まれることができるのは、希の中の希だと仏教では説いているからです。
単に生まれてきたのではなく、そこに大きな使命を担ったいのちが宿っているんです。
ですから「生きている」ではなく「生かされている」んですね。
私も、僧侶になるまでは生きているのは当たり前、なんでもかんでも当たり前、と考えていた人間でした。
いいこと悪いことが起こっても、「運の良し悪し」しか、考えていませんでした。
しかし、今よくよく考えてみると、私の波乱万丈なこの人生は、実はお寺の再建と繁栄を目指すためにあった
のだと身をもって感じています。
坊守のあつ子もそうです。
大動脈解離、四度の脳梗塞、脳動脈瘤、大動脈瘤と、これでもか!というくらい試練がありましたがすべて
乗り越えて、同じく私と一緒にお寺を再建し繫栄させていく命を生きてきたのです。
その為に生かされているんだ…そう思わずにはいられません。
他の多くのいのちをいただきながら、大きな使命を任されたこのいのちを繋ぎ生かされ、そして仏さまの願い
に適った生き方をしていく。
そのための
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び
ありがたくいただきます」
「尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。おかげで、ごちそうさまでした」
という言葉なんですね。
まことにありがたく、またもったいないことだと深く思います。
皆さんのいのちも、必ず大きな意味や使命、役割があります。
そのいのちの中でしてきたことは決して無駄にはなりません。
そして今を生かされている。
そう考えるだけでも、「ありがとうございます」と感謝の気持ちが湧いてきませんか?
自分のいのち、そして他の多くのいのちについて、考えるきっかけになれば、と思います。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一 心(西守 騎世将)