皆さん、こんにちは。
もう三月ですね。世の中いろんなことが起こっても、ちゃんと草花は芽吹き、春の開花に向けてすくすくと
成長しています。
にも拘わらず私たち人間という生き物は、いつも何かに惑わされ、迷い、苦しんでばかり
です。

物が無ければ無いであれこれを求め、迷い苦しみ、有ったら有ったでこれまたいかに減らさないかで、迷い
苦しみます。
なんか不思議な生き物ですよね。
これ、同じことをお釈迦さまが2,500年前に「仏説無量寿経」という経典の中で言われています。
2,500年前は今とは違い、文明の利器は殆どありませんでした。
なので、いろんな便利な物に囲まれて暮らしている今の時代の人は、どちらかというと便利な物が無かった
昔の人や文化のことを少し低く見る傾向にあるように思えます。

でも、実は人間って何も成長していないんですよね。
いや、むしろ便利な物に囲まれ、またそれらが溢れ過ぎていて、考えたりする機会をも奪われ、昔の人たち
よりも劣っているのでは無いでしょうか。


例えば…バーベキューをする際に火を起こしますよね?
最近では着火剤なる便利な物も多くありますが、そんなの無しで火を起こせますか?
この法話をお読み頂いている先輩方ならおそらく簡単に出来るかと思います。
私も子供の頃住んでいた家のお風呂は、薪で火を炊くお風呂でしたから、小学校低学年の頃から、自分で薪を
割り、火を起こしていましたので割と得意です。

葬儀で使用した白木の仮位牌…四十九日法要が過ぎたらウチでお預かりして、読経の後にお炊き上げを
させて頂いていますが、もちろん着火剤なんて使いません。

気持ち的にもそんなの使ったら仏さまに対して失礼な感じもします。
お念仏しながら、細かな焚き付け用の細木から火を起こしていきます。
でも今の人、着火剤無しで火を起こせる人、少ないです。
私はよく無料動画配信のYouTube(ユーチューブ)でキャンプをされる方の動画を観ているのですが
やはり殆どの方達が着火剤で火を起こされています。

中には火打石みたいなので火を起こしている人もおられますが…
つまりは火を起こす機会そのものが、今の時代無くなっている生活になっているからです。

私が最初に就いた仕事は建築大工でした。
そしていつも鉛筆を耳に挟んで使っていました。
忙しい建築現場でいちいち鉛筆削りで鉛筆を削ってられないので、ノミやカッターナイフでササっと鉛筆を
削って使っていました。

今はシャープペンシルの使用が当たり前ですから鉛筆を削るという行為はなかなか無いかと思います。
つまりは、身の回りの物全てが人間の能力や思考に関係なく便利に使える時代になってしまっているので
言い換えればこれらの便利ツールが無くなった時、何も出来なくなるんです。

スマートフォンで代金の支払いすらできる時代ですから、それを失くしたら大慌てですね。
結局、人間にとっての成長とは関係なく、道具などの別の物事だけが進歩しているんです。
そしてそれと反比例して人としての進歩、成長はしなくなっているのではないかと危惧しています。
もちろん私自身も含めて…

さて、話を戻します。
私の父親…富士男と言うのですが、そりゃもう、滅茶苦茶なオヤジでした。
気に入らないとすぐ手を出し、蹴とばす、壊す。
私もどれくらい殴られたかわかりません。
若い頃は私がローンで買った車のフロントガラスも角材で割られました。
部屋も破壊され、大切にしていたギターも折られました。
私は21歳まで実家に住んで父親の建築業を継ぐべく大工さん修行をしながら働いていましたが、あまりにも
富士男の暴走がひどく、家を出て一人暮らしを始め不動産営業の会社に就職しました。

その後独立して24歳で今の会社を興し、今年で創業38年目になります。
その間、富士男とはいろいろありましたが、結局紆余曲折を経て、現在富士男は老人施設に独りで入居して
います。

今年で84歳…の割には元気です。
富士男の妻=私の母は2年前に他界しましたので、今は一人身です。
その滅茶苦茶だったオヤジ・富士男は今はとても物静かです。
いつも人の悪言や文句ばかり言っていたその口からは、「ありがとう、ありがとう」がよく出るようになり
ました。

お金に執着の強かった人でしたが、今では私が通帳を預り全て管理しています。
時々施設に会いに行くのですが、「何か要る物ある?飲みたい物、食べたい物ある?」と聞いても必ず
「無い」としか答えません。

そして「今で十分すぎる」と言います。
現役の頃は屈強な体格をしていましたが、今はとても痩せています。
施設には若いスタッフさんが何人かいるのですが、多くのお年寄りを相手に仕事をしていますので中には
イライラしてお年寄りの方達にキツい物言いをしてしまうスタッフもいるそうです。

そんなスタッフにも「優しく話しかけて諭してくれているので、本当にありがたいです」と施設の責任者が
先日私に話してくれました。

今では施設の中でも人気者らしく、若いスタッフさん達から「モリモリ」というニックネームで呼ばれて
いるそうです。

前述した通り、私は富士男とはいろいろあり過ぎてあまり顔も合わすことなく長く年月が経過していました
が、その年月が富士男を段々変えていったんですね。


歳を重ねれば、身体のいろんな部位が思い通りに機能しなくなります。
その分、今までのように言いたい放題、やりたい放題は出来なくなります。
そして必ず誰かの助けが必要となる時、初めて「ありがたい」という思いが心から湧くのだろうな、と思い
ました。


私は過去、富士男を反面教師として生きてきました。
「俺はオヤジのようには絶対に成らない!」が自分の教訓でした。
しかし今の父親を見ていると「自分もあんな風に、穏やかで人に優しく、そして感謝と謙虚に生きるように
なれるのかな」と思えるようになりました。


子にとって親は絶対的な存在です。
ですから親を「完璧な人間」という人より厳しいフィルターで見ますので、何か違和感があると憎悪感も
大きいです。

親に完璧さ、理想を求めながらも自分自身はどうなのか?とは省みません。
それが子です。
自分が「オギャー」と生まれた時、人間として一年生ですが、親もその時から親としての一年生。
お互い一年生同士から始まってその命を生きてきたのです。
そう思うと、親って本当に大変だな、と思います。
だって、一年生から完璧を求められるのですから。
子はただ親に守られ、甘えているだけですもん。
私と父・富士男は22歳しか歳が離れていませんので、お互い若い頃は衝突ばかりしてきました。
その富士男は一人暮らしが出来なくなり、昨年施設に入居したのですが、その時思ったことがあります。
「自分も20年後にはこうなるんだ…」と。
その頃、家内が一緒に居てくれてるかどうかもわかりませんし、現役の住職として法務をこなせているか
どうかもわかりません。

ましてや、自分がそこまで生きていられるのかもわかりません。
それこそがこの「人間界」という迷い苦しみの世界です。

本願寺第八代門主の蓮如上人(れんにょしょうにん)という方がいらっしゃいます。

法要の際、最後に拝読される「御文章(ごぶんしょう)」を書かれた方です。
その中で「ただ一念帰命の他力の信心を決定(けつじょう)せしむるときは、さらに男女老少
(なんにょろうしょう)をえらばざるものなり。(中略)これすははち不来迎(ふらいごう)の談
平生業成(へうぜうごうじょう)の義なり」という文があります。


意味は、「ただ一心に阿弥陀如来に帰命する他力の信心が定まる時には、男女の別も老いも若きも関係ない
のです。このことは、臨終の来迎(臨終の際の仏さまのお迎え)を期待するのではなく、平生において信心
が定まるときに往生が定まった身になる、ということです」という内容です。


ここで大切なのは「他力の信心を決定せしむる」と「平生業成(へいぜいごうじょう)」の二つの言葉。
浄土真宗では、阿弥陀様の救いを信じることを「他力の信心」と言います。
一般的に信心とは通常私たち衆生側からの「信じる」という能動的な行為のように思われていますが
浄土真宗では違います。

信心はこちら側の「信じる」ではなく「阿弥陀さまから頂く信心」なのです。
なぜなら、阿弥陀さまの救いは絶対だからです。
「救う」と誓われた仏さまですから、そこに偽りも条件も変更もありません。
しかし私たち衆生は愚かでいつもコロコロと心が移り変わります。
衆生主体の信心では全く信用なりません。
阿弥陀さまはそこまで見抜かれ、阿弥陀さま側から衆生に対して絶対に見放すことのない、変更も条件も
ない救いを「絶対的な信心」として私たちに回し向けて下さっているのです。

ですから、私たちの心が常時コロコロ移り変わっていようがどうであろうが何の関係も影響も無く、この
救いは決定しているのです。


私があれこれジタバタするのを「自力」。
阿弥陀さまのお力は私以外の力ですから「他力」。
よって、阿弥陀さまから賜る信心なので「他力の信心」という表現なんです。
そしてその信心を賜ったことを「信心決定(しんじんけつじょう)」と言います。
この信心決定=阿弥陀さまから他力の信心を賜る=間違いなく絶対に救われる、というのは、男女の別も
関係ない、老いも若きも関係ない。

ましてや死ぬ間際に決まることでもないぞ、ということなんですね。
ではいつやるの?…今でしょ?(古い…)なんです。
これを平生業成(へいぜいごうじょう)という表現で蓮如上人は表されています。
平生(へいぜい)において、業を成せ、つまり生きているたった今、信心賜れ、という事です。
親鸞聖人の教えをギュッとコンパクトにするとこの「平生業成」の四文字に収まるとも言われています。

「自分も20年後にはこうなるんだ」…そう思った私。
でも、明日もどうなっているのか、わからない身なんですよね。
最近は毎朝目が覚めたら「今日も生かされました。ありがとうございます」と仏さまに感謝して手を
合わせています。

でも明日はわかりません。
そんなギリギリの境遇で生かされている私たちなのですから、今の今、阿弥陀さまからの他力の信心を賜り
「こんな私をお救い頂き、ありがとうございます」とひたすら感謝し、そしてその救いの定まった身を
歓ぶべきなのです。

そうすると自然と「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」と感謝と歓びでお念仏が自分の口から溢れてきます。

信心が浄土往生できる正しい要因だから、「信心正因」(しんじんしょういん)」。
そしてその救いに感謝してのお念仏だから「称名報恩(しょうみょうほうおん)」。
何よりも信心賜った歓びだから「信心歓喜(しんじんかんぎ)」です。
成ることが困難だと言われる人間として生まれることができ、遇うことがことさら難しい仏法に出会い
そして既にお浄土に往き仏さまとして生まれることが決まった身であることを知れば、日々の雑多なことは
全くたいした問題ではない、ということがわかりますね。

心から歓び、感謝してお念仏する今日を目一杯生きたいです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一 心(西守 騎世将)







 


 
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