皆さん、こんにちは。
六月に入りました。
一番懸念しているのは、この異常な暑さです。
五月で既に真夏の暑さを観測し、日本の四季が崩れているのがなんだか悲しいですね。
私はバイクにも乗るのですが、寒い寒い冬と地獄のような暑さの夏は乗りません。
(正しくは、乗れません…)
そして今は「ツーリングに良い季節」と言われる、春と秋と呼べる気候が一カ月も無いので、ほぼ乗れる時期
が無くなって来ています。
更には、熱中症で倒れてしまう人が続出で真夏には救急車がたくさん出動します。
救急車を見る度に「どうか御無事でありますように」と願うのですが、人が生きて行くにはかなり大変な気候
になっています。
室内外を問わず、真夏の過ごし方は以前とは全く異なりますので、どうか皆様もくれぐれも熱中症にはお気を
付け下さい。

先日、とんでもないニュースが飛び込んで来ました。
皆さんもよくご存知かと思いますが、読売巨人軍の阿部慎之助監督が、長女に暴力をふるった疑いで逮捕され
ました。
その後すぐに釈放されましたが、阿部監督は責任を取り監督を辞任されました。
事の顛末だけ見れば「残念な出来事ですね…」で終わってしまうことかもしれません。
でも詳細な情報をや様々な報道を見れば見るほど、違和感を私は感じました。
ここからは私の私見ですので、疑問に思われる方はスルーして下さい。

まずもって暴力はダメです…とは世間一般に言われますし、私もそう思います。
しかし、この「暴力」という言葉一つで括ってしまうのはどうなのかと、私は以前から思っているんです。
昨今の大問題となっている「トクリュウ…匿名流動型」強盗犯罪。
皆さんはどんな備えをされていますでしょうか?
これ、なかなか難しいですよね?
相手はバールという大きな釘抜き状の鉄の棒やナイフなどの刃物を持っています。
玄関や窓を施錠していても破壊して入ってきます。
防犯カメラや警報装置があってもお構いなし。
一般の方にはなかなか防御は難しいことでしょう。
私は、過去・空手の指導員をしていましたので、強盗が入って来たらそれなりの護身方法を執るつもりです。
襲われていきなりバールで頭を殴られたら命はありませんので、全力で対応します。
準備万端…でも「お願いだから絶対に入って来ないでほしい」と切に願っています。
なぜなら、こちらもそれなりに家内や自身を守る為に無我夢中で応戦し、場合よっては犯人に大ケガをさせて
しまうこともあるからです。
問題はそこから。
この国は「正当防衛」という概念がとても曖昧で、正当防衛行為が後にあれこれ審議され、場合によっては
過剰防衛として罪に問われてしまいます。
しかし、自分が命の危機に瀕している時…刃物で今にも刺されそうな時や、バールで頭を殴られそうになって
いる瞬間に、「まあ、入院一歩手前くらいでおさえておくか…」なんて選択肢を持ちながらの応戦なんて一体
誰が出来るんでしょうか?
相手は命を狙いに来ているわけですから、当然応戦する側も全力で抗います。
万一、強盗犯側が重症を負い、被害者側が無傷なら立場が入れ替わり、被害者が加害者になり兼ねない…
命の危機に遭遇したその瞬間に、「適度な応戦方法」など存在しませんし、判断も出来ません。
そんなリスクも見えているので「お願いだから絶対に入って来ないで」なんです。

今、各地で熊が出来てますよね。
北海道のハンターが市の要請に基づきヒグマを駆除したところ、違反があったとして銃刀法違反となりライフ
ル銃の所持許可取消処分になった事例がありました。
これも結局、運用方法、現場判断の困難さがきちんと議論されないまま導入されてしまった問題です。
これ、机上レベルで簡単に決められるほど簡単な問題ではないんです。
最終的には行政処分取り消しになりましたが、そんなリスクを負ってまで誰が進んで緊急銃猟するんでしょう
ね…それでも熊は人里に現れ、今も人を襲っています。

他人や自分達の命を守ろうとする行為は本能で当然行うこともあるでしょう。
しかしとても難しい問題でもあります。
話を阿部元監督の話の戻しますが、実際の状況はよくわかりません。
経験のある人なら知っているかと思いますがケンカの仲裁って、なかなか難しいですよ。
ヒートアップしてる人達の間に入ってケンカを止めるって、いくら相手が子供であっても凄く大変です。
場合によっては仲裁に入った自分がケガをしてしまうこともあります。
胸ぐらをつかんだ、との報道ですが、どうしてもケンカが止まらない場合はそんなこともあるでしょうね。
躾と暴力の境界線とは何でしょう?
ケンカの仲裁でケガをしそうな当事者二人を引き離したら、片方が倒れて打撲した…の仲裁と暴力の境界線
とは何でしょう?
先にも述べた、バールで強盗犯が殴りかかって来たのでそれをかわして抑え込んだら相手が骨折した、の自己
防衛と暴力の境界線とは何でしょう?
結局、その場では行為の程度などが全く予期できないことばかりです。

一番心配しているのは、後々面倒事に関わりたくないから無関心になってしまうこと。
困っている人がいるのに、「後で面倒だから…」と、見ても見ぬフリ…これ今でも結構多くないですか?
私はそれが出来ない性分なので、余計にこんな事件事象を見ると、「法って本当に不完全」と思います。
今回の阿部元監督のケースでも、どのメディアも
「児童相談所は正しく対応した」
「警察も適切な対応をした」
と言っていますし、私もそう思います。
でも正しい事を重ねて積み立てていっても、そのまま「正しさ」が出来上がるのか?とはまた別問題なのだな
というのが、私の感じた違和感でした。
ルールが増えれば増えるほど、いろんな矛盾も出て来るんです。

長くなるので今回は省きましたが自転車の交通ルール改定もそうですね。
現場の警察官も大変だと思いますよ。
ひずみが出ているのにそれを正さず上書きすれば、更にひずみが大きくなるのは世のならわし。
なんか、もう自転車乗りたくないですもん…今の改定されたルールでは怖くて、危なくて。

もっと丁寧且つ柔軟な、そしてまずもって人に優しいルール作りとそれに基づく寛容さに溢れた世の中になって
ほしいと、切に願っています。

さて、今月の法語「愚者になりて往生す」。
これは、親鸞聖人のお師匠様である浄土宗の開祖「法然聖人」の教えなんです。
「故法然聖人は【浄土宗の人は愚者になりて往生す】と候(そうら)ひしことを、たしかにうけたまはり
候(そうら)ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、【往生必定すべし】
とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、【往生は
いかがあらんずらん】と、たしかにうけたまはりき」と親鸞聖人が乗信房という関東の念仏者の方に出された
お手紙の一節です。(註釈版聖典 七七一頁「親鸞聖人御消息」より)

現代文でご紹介させて頂きます。
「今は亡き法然聖人が【浄土の教えを仰ぐ人は、我が身の愚かさに気付いて往生するのである】と仰せに
なっていたのを確かにお聞きしました。まだ何もわかっていない人々が法然聖人の元に来られるのを御覧に
なっては【間違いなく往生するであろう】と微笑まれていたのを拝見しましたし、また、学者ぶった議論をし
いかにも賢そうに振舞う人が来た時は【あの人の往生はどうだろうなぁ…】と仰せになっていたのも確かにお聞き
しました」という内容です。

法然聖人も親鸞聖人も、「学者ぶった議論」をする人をよく思われていませんでした。
なぜなら、阿弥陀さまの救いは「不可称不可説不可思議」だからです。
つまり、阿弥陀さまの我ら衆生をお救いになる力=本願力は、称(たと)え尽くすことも、言葉で説き尽くす
ことも、重い量ることもできないほどの尊さがあるからで、阿弥陀さまの本願や念仏の功徳が人間の理解や評価
を超えているからです。
それを、少しばかり仏教を学び、理解したつもりになって賢そうに振舞う人を否定しているのです。

また、お釈迦さまのお説きになられた経典でダンマパダ(法句経)という教えがありますがここにもこう書かれ
ています。
「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなはち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だ
と思う者こそ、愚者だと言われる」。
法然聖人も親鸞聖人も、学者気取りで賢そうに振舞っている人こそ「愚者でありながらみずから賢者だと思う
者こそ真の愚者である」ということをご存知だったからです。

私も法話をさせて頂く機会が多いですが、法話は「皆さまと一緒に仏さまのお徳を讃え、共にお救いを歓びま
しょう」という大原則に沿ってお話させて頂いています。
なので「教える」という授業になってはダメなんですね。
でも少しばかり深堀りして調べ、わかったつもりになると、どうしても教えたくなるのが凡夫です。
教えようとすると、どうしても自身の考えが混ざります。
混ざりものがある話はもはや仏さまの教えでは無く、法話者の教えになってしまうんです。
故に、仏さまのお救いを小さな凡夫の頭で理解は出来ません。
出来ることは、ただひたすら阿弥陀さまのお救いを信じ、お救いを歓ぶのみ。
なぜなら、凡夫は愚者だからです。
そんな愚者だからこそ、阿弥陀さまは「必ず救う」と願い立たれ、こんな愚者の為に大変な修行をして下さり
その功徳をもって既に救いの手の中に収め取って下さったんですね。
自分は賢者だと思っている人は、賢者ですから自分で浄土往生の道を探していかれるのでしょう。
わたしのような凡夫である愚者はその術も能力もありませんので、ただひたすら阿弥陀さまにお任せするしか
ないのです。
故に「南無阿弥陀仏」の元となったインドのサンスクリット語「ナマス・アミターユス」の意味が
「阿弥陀さまにお任せします」で、お任せした以上、わたしは何もする必要はありません。
ただひたすら阿弥陀さまにわたしの命をお任せし、感謝するだけ。
「お救い頂きましてありがとうございます」という思いを込めて「阿弥陀さまにお任せします=南無阿弥陀仏」
なんです。
これがご恩報謝のお念仏なんですね。

すると「ありがとうございます」「ありがとうございます」の生き方になりますから、多くの執着への囚われ
から解放され、もっと楽に清々しく生きて行けるのだと思います。
私もここ最近、様々な執着に囚われていたことに少し気付き始めました。
そして、長年保持してきながらも活用していない資格や免許などを返納し始めました。
最初はかなり抵抗がありましたが、いざ手放すとスッキリするものです。
国家資格や免許って面白いですね。
取るためには大変な資料や時間も掛要しますが、返納は紙一枚出してそれで終わりですもん。
あっさりしたものです。
そして家にある使わないけど取っておいた余計なモノ達…大量に処分しました。
そうすると不思議ですね…当然ながら収納していた場所が空いて大きなスペースが確保されました。
更には、心の中にも大きなスペースが出来て、余裕が生まれました。
気がとても楽になり、以前よりたくさん笑うようになりました。
歌である「手を放す、軽くなる、満ちていく」って、こういうことなんだ、と実感しました。

凡夫であり愚者なんだから、余計なことをあれこれしても意味が無い。
ただ、感謝して手を合わせて生きて行く。
それで良かったんだ、と心から思います。

学問は、勉強すればするほど知識は増えて行きますが賢くなったわけではありません。
仏教は、勉強すればするほど自分の愚かさを知ることになります。
なぜなら、わたしをお救い下さった仏さまからのお育てだからです。
有り難くて有り難くて、手を合さずにはいられませんね。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一 心(西守 騎世将)







 


 
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