皆さん、こんにちは。
七月、梅雨真っ只中ですが、いかがお過ごしでしょうか。
近年、梅雨の終盤にはとてもひどい雨が局地的にいっきに降るようになり、各地で河川の氾濫や土砂崩れ被害が
多発してます。
そして何かあると「防災、防災」と耳にしますよね。
しかし各地で災害支援活動をしてきた私に言わせれば、「人間レベルで防災などできるわけない」が正しいです。
なぜなら、人間の力で災害を防げるのであれば各地での災害は起こらないからです。
いくら都市部で巨大な排水インフラを整備したとしても、それを上回る大雨がいっきに降ります。
そしていくら高い堤防を築いても、それを上回る河川の増水や、沿岸部では大きな津波がやってきます。
気象庁のコンピューターや降水レーダーでも線上降水帯の正確な予想は未だ困難。
人間は常に何かを「想定」するのですが、それを上回るのが災害。
ですから人間には防災は出来ません。
出来ることはただ一つ…【避難】しかありません。
「どうせ大丈夫だろう」とか「無駄足になるのがイヤ」とか考えていると大変な目に遭います。
根拠の無い楽観視と面倒が、自分や大切な人たちの命すら奪うのです。
それが「災害」です。
今月の善教寺ホームページのトップページには、私の大恩師である佐々淳行(さっさあつゆき)先生の写真を
出させて頂きました。
名前を聞いてピンと来なくても、昭和の大事件「あさま山荘事件」と言えば聞き覚えがある方もいらっしゃるかと
思います。
当時の学生を中心として暴走した左翼組織・連合赤軍が軽井沢にあった河合楽器の保養所「あさま山荘」に人質を
とって立てこもった事件。
クレーン車で吊るされた大きな鉄球で建物を破壊する映像は今でも報道番組で見られます。
あの、あさま山荘事件の現地指揮官をしておられたのが佐々淳行先生です。
警察庁勤務の後、防衛施設庁長官などを歴任され、初代内閣安全保障室長を勤められました。
そして、中曽根康弘総理、竹下登総理、宇野宗佑総理に仕え、退官。
今ではごく当たり前に使われている「危機管理」という言葉を作られた方でもあります。
佐々淳行先生は実は熊本にもご縁がある方で、熊本の進学校である濟々黌高校(せいせいこう)の前身である
同心学舎を創設された政治家の佐々友房公のお孫さんなんです。
佐々友房公のご先祖様は熊本の人なら誰でも知っている佐々成政公です。
私は佐々淳行先生から直接「危機管理」と「リーダーシップ」を叩きこまれ、その教えが今でも生きる上での柱
となっています。
実は佐々先生は、善教寺坊守である家内のあつ子の大叔父であり、そこからご縁が出来て佐々先生の教えを受ける
貴重な機会を頂きました。
危機管理についてはまたの機会に触れたいと思いますが、私は佐々先生に面と向かって、「僕が先生の後を継ぎ
先生の危機管理を世に広めて行く!」と断言しました。
先生は一瞬驚いた後、嬉しそうに笑われて「うん、うん」と頷かれておられました。
残念ながら佐々先生は2018年10月10日にお亡くなりになってしまいましたが、佐々先生のとても貴重な危機管理
の教えは私以外にも多くの著名人や弟子であった方々に受け継がれ、今でも日本という国や人々を守っています。
今回、愛知の善教寺別院・一心庵に佐々先生の遺影を置き、自筆の「鬼手仏心」と書かれた扇子も安置する場所が
やっと出来、毎日手を合わせて、いろいろなことを話し掛けて、生きる勇気を頂いています。
不思議と佐々先生の遺影、話し掛けると、先生は微笑んで下さるんです。
ホントですよ…

ちなみに、鬼手仏心(きしゅぶっしん)とは、佐々先生の座右の銘で「鬼のような厳しい手法だけど、その根底
にはその人を思う仏のような慈悲の心によるもの」という意味で、元々は囲碁の世界から発した言葉だそうです。

さて、今月の法語「現実は常に目の前にある 真実は常に見えないところにある」について、触れて行きたいと
思います。
まず、「現実」と「真実」の違いはご存知でしょうか?
現実とは、いわゆる五感などによって客観的に確認できるありさまのことを言います。
真実とは、そのありさまの本当の意味や隠れた背景などの主観的且つ本質的な内容のことです。
言い換えれば、真実が現実を作り、現実は真実によって起こり得る、でしょうか…
難しく哲学的なことは置いておき、もっとカンタンにお話したいと思います。
「見えるものより、見えないものが大切」というような言葉を聞いたことありますでしょうか?
似たようなセリフは映画などでもよく使われます。
なーんか漠然としつつも、耳に響く言葉だな…と思いませんか?
目に見えるものごと、それ自体が現実であり、真実であることもあります。
しかしその多くが、真実は隠れて出てこないことの方が多いんです。
たとえば「人」。
皆さんは人に接する態度、全て同じですか?
そういう方は皆無ではないでしょうか…だって人はホンネとタテマエで生きていますから。
笑顔の裏にある本音は絶対に見せることは無いでしょう。
また、ホンネだけでは人間関係は構築出来ません。
必ず人と人とを結びつけるための潤滑剤である「礼儀、行儀、マナー、ルール」がありますから。
でも一人でいる時にはどうでしょう?
よく「その人のホンネ、本性は去り際に出る」と言います。
気を付けたいのは電話。
どんなに相手が丁寧且つ流暢な敬語で愛想良く話をしていても、切り際にいきなり「ガチャン」と切られた経験
ないですか?
そこでもう相手のホンネがわかりますよね。
まあ、特殊な事情がありすぐに電話を切らないといけない状況はあるかもしれませんが、そこにどれだけこちらの
ことを意識してくれているか、大切に考えているか、という真実はそのまま現実として伝わるでしょう。
きっと電話を切ってから「こいつ細かいことばかり言いやがって、うるさい客だなー!」って言われてるんだろう
な…と想像出来てしまいます。
これはごくごく簡単な一例ですが、人はどうしても見かけを大切にするあまりに、自分の真実・本性を置き去りに
しています。
隠したいところを隠しても、何かしらのきっかけで、それは出てしまいます。
そんな無駄な努力をしないで、隠したい真実を自身で修正していくか、または真実を隠さず現実として認め、受け
入れて生きて行くことの方が大切ではないでしょうか。
極論かもしれませんが、真実を隠して生きるということは、表面に現れている現実はウソ偽りですもんね。
しかし残念ながら世の中はこんなウソ偽りで溢れています。
それが犯罪として利用もされ多くの被害者も出ています。
これ、今に始まったことではなく、2,500年以上前からお釈迦様は「人はウソ偽りで真実を隠して生きている故
自身もウソ偽りに騙されていきている。どうして正しい教えがあるのにそれを受け容れず、自らをも誤魔化して
生きるのか…」と嘆かれています。
実際に経典の中にそう書かれていますから、私が想像で言っている事ではありません。
なので、「我ら凡夫に真実は無い」と言われる理由でもあります。
人間って、なんかどうしようもない生き物に思えてきませんか?
なぜならこの人間界は「迷い、苦しみの世界」だからです。
ウソ偽りに酔いしれ、それが正しい善と勘違いしつつも心の奥底で「こんなんではダメなんだろうな…」と一部
の慚愧(ざんぎ…自分の過ち、未熟さを恥じ、申し訳なく思う心)があるのも人間なんですね。
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と言う菩薩さまは、そんなどうしようもない人間=衆生(しゅじょう)を憐み、
どうしても放っておけず「私が必ず救う」と願い立たれ、とてつもなく長い長い時間を掛けてわたしたち衆生を
救う方法を考えて下さりました。
とんでもなく長い時間が掛かってしまったのは、それだけわたしたち衆生の業が深すぎるからです。
さらにそれを現実のものとするために、更にもっと長い時間をかけて苦行をして下さり、法蔵菩薩さまはお浄土
を建立され、ご自身は阿弥陀如来というお念仏の…声の仏さまになられ、願いを成就されたんです。
その苦しく大変な修行で得られた功徳をすべてこのどうしようもないわたしに振り向けて下さり、迷いの世界で
ある人間界での命を終えた暁には、わたしをもう二度と生き死にを繰り返さないお浄土と言う世界に生まれさせて
頂き、ウソ偽りの無い真実の世界、真の安らぎの世界で仏さまという身に成らせて頂き、同じように迷い苦しむ
人間界とお浄土を自在に行き来して、過去自分もそうであったように迷いながら、苦しみながら生きる人間を
同じようにお浄土に迎え入れる救済のはたらきをさせて頂く。
そこには永遠のいのちしかないので、もう死ぬことに怯えることすらない…
生まれ難くして生まれてこられたこの人間界において、更に遇い難くして遇うことにできた仏法に触れられた、と
いう、本当に稀な機会を頂いたことこそが真の歓びなんです。
つまり、ここまで来られたのも全て仏さまのおはたらきです。
その仏さまのおはたらきこそが真実で、当然ながら目に見えないものです。
だから、もうわたしは救われた…仏さまに「どうかお救い下さい」とお願いする前から、先手で救って頂いた。
こんなどうしようもないわたしなのに、何の条件も付けずにお救い下さった。
これこそが真実です。
有り難くて、有り難くて、自然に手が合わさり「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と口からお念仏がこぼれる。
「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝の気持ち、心がそのまま口先だけではなく、生き方
そのものに現れてくる。
これも真実=仏さまのおはたらきです。
これこそが、阿弥陀さまより賜る信心、真実信心といわれる所以です。
人間の本性というあまり見せたくない真実もあれば、仏さまのおはたらき、お救いという尊くありがたい真実も
ある。
生きている内に、阿弥陀さまより真実信心を賜る生き方=念仏の衆生としてお育て頂く、という素直に思う心
こそが、「いのちの危機管理」ではないでしょうか。
目に見えるものよりも、目に見えないものが大切とは、きっとそんな意味なのだと私は思います。
佐々淳行先生もきっとお浄土で「騎世将くん、それだよ、それ!」と笑って言っておられるような気がします。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一 心(西守 騎世将)