あらためましてこの度の熊本地震にて被害に遭われました皆さまには心よりお見舞い申し上げます。
私共も数日ではありますが被災地に出向き、微力ながらご支援とお見舞いをさせて頂きました。
崩れた家屋などを見ると、本当に十年前を思い出します。
「これが日本なのか…?」と思えるほどの被害です。
そんな地で生きているのだという事、安全安心は無いのだという事を改めて思い知らされました。

そんな中、九月はお彼岸時期を迎えます。
こんな状況では秋彼岸会は中止にすべきでは…と考えておりましたが、「こんな時こそお勤めをし、大きな声
を善教寺の本堂に響かせることが勇気と希望に繋がるはず」という声をお聞きし、それに背中を押されて9月
26日(土)に善教寺・秋彼岸会を実施する決断をしました。
ただ、皆さま片付けや被災地でのお手伝いなどお忙しいことかと存じますので、お勤め後、西守の法話にて
短い時間で終える予定です。
どうぞ皆さま御参加下さいますよう、宜しくお願い致します。

今回上空からも被災地の様子を調査してきましたが、やはり今後の課題は「屋根瓦」だと思います。
10年前の平成28年熊本地震でもそうでしたが、多くの全壊家屋は屋根瓦がそのまま綺麗に屋根に乗ったまま
柱が折れて崩れています。
屋根瓦は一枚一枚が重いですが、それは雨風に耐えるためです。
そして元来その一枚一枚はがっちりと固定はされておらず、ある程度の地震で落ちるようになっています。
建物が地震などで揺れると、屋根部分が大きく揺さぶられますので、瓦が落ちて屋根が軽くなり、建物本体を
守るように出来ているんです。
しかし、「地震の際に屋根瓦が落下して下にいた人が危ない」という理由から屋根瓦はがっちりと固定するよう
に法律が変わってしまいました。
なので大きな揺れに対して建物の屋根が激しく揺れ、その結果構造材である柱や梁が折れて建物が崩れてしまう
んですね。
特に寺院は大きく高い屋根が特徴です。
これはその昔、遠くからもお寺の位置がわかるように、とのことで目立つ高い屋根にしているのですが、近年は
マンションなどのもっと高い建物が建っていますから、その意味も薄れて来ています。
善教寺も当初の再建計画時は同じような高い屋根をイメージしていましたが、やはり次にまた地震が来た時に
重い屋根が要因となって崩れるリスクがあると考え、「お寺らしくない外見のお寺」になりました。
しかし、お寺は「阿弥陀さまに手を合わせることができ、皆さまと一緒にお経を唱和する声が響く本堂」が
あれば良いのです。
そしてその本堂で「仏さまのみ教え」のお取次ぎが出来れば良いのです。
従って、照明もLEDライトを仕込んで明るくし、お荘厳(飾り)も最低限にしたシンプルなデザインです。
床も正座はせずイス式の本堂にしました。
そして何よりもコストをかなり下げることができます。
まさに一見は「お寺らしくないお寺」そのものですが、お寺の本質はしっかりと押さえています。
八代の被災地に行ったら、交差点角の瓦屋根の家屋は崩れかけ、「危険」と書かれた赤紙が張られていました。
しかし、その隣のもっと背の高いトタン屋根の焼肉屋さんは何事も無かったかのように営業されていました。
もちろん、どんな構造にしても自然災害に対しては耐性に限界はあります。
しかし、発想を変えることによって危険はある程度回避出来るのではないのか、と私は思っています。

さて、前置きがながくなりましたが(いつも…)、今月の言葉は法語ではありませんが
「人の心は水の如し 掴まず 汲むべし」です。
凡夫と呼ばれるわたしたちの心は常に移ろい変わりゆくものです。
決して不変ではありません。
そんな掴みどころのない「人の心」を掴もうとしてもそれは無理な話。
しかも「掴もう」としているのはわたしであって相手ではありませんし、そもそも掴もうとするわたし側の
都合が殆どです。
つまり、人の心を掴もうとするのは言い換えれば都合の押し付けなのかもしれません。

水は掴むことはできません。
しかし手でそっとすくうことはできます。
水はそうやって、大切に慎重に両手で汲みますね。
しかし「両手では少ししか汲めない」と、今度は大きなタンク満タンに水を入れると、今度は重すぎて運ぶこと
が出来ません。

心を汲む、気持ちを汲む、意を汲む…いろんな言い方がありますが、「汲」と言う字は「忙しく動き回るさま」
という意味もあります。
人の気持ち、心を汲むには、まさに頭をフル回転して相手の気持ちを理解し、何を求めているのか、ホンネは
どこにあるのか、を先読みしないと心を汲むことは出来ません。
そこに汲む側の都合が入ると「掴む」になってしまいます。

同じ教えを浄土真宗の根本聖典である仏説無量寿経でも説かれています。
(仏説無量寿経 正宗分 法蔵修行…註釈版聖典二十六頁)
「和顔愛語(わげんあいご)にして意(こころ)を先にして承問(じょうもん)す」。
和顔愛語とは、おだやかな顔とやさしいことば、です。
意を先にして承問す、とは「先意承問(せんいじょうもん)」と言いますが、相手の意志を先んじて知り、受け
容れること、という意味です。
これは、後の阿弥陀如来となる菩薩、法蔵菩薩が、自ら一切衆生を救うために大変長くつらく苦しい修行をされ
ている時の様子が説かれた一文です。
自分はとても辛く苦しいのに、人に対して常におだやかな顔とやさしいことばで接し、そしてその人の意を汲み
「自分がその人の為に何が出来るのか」を自問し、受け容れていく…
これ、とても大切な教えだと思います。

「汲む」とは想像力のフル稼働が必須なのだと私は解釈しています。
例えば、何かを人に贈答する時。
「これを贈ればきっとあの人は喜んでくれるだろう」…そんな想いで贈ることでしょう。
それはそれで尊いのですが、もっと想像力を働かせると「喜ばせたい」という気持ちの押し付けに大なり小なり
なっていないか?の自問が出てくるはずです。
ひょとしたら「掴む」になっているのかもしれません。
相手が「欲しい」と望むのを「汲む」のとは異なります。
また、頂いた側は頂いた側で「お返し」をしなければ、と考えることにもなります。
結局、絶対に欲しいわけではない物のやりとりが義理として発生することもあります。
喜ばせたい、という純粋な気持ちはとても尊いです。
でも、喜んでもらいたい、という自分の「汲む」思いが、ある時「掴む」になる瞬間もある、ということを
知っていると、また少し変わるのかもしれません。

最初に、人の心は水の如し、と申し上げました。
もし「水を円筒形にして見せて」と言われたらどうしますか?
想像力をフル稼働された方はもうおわかりですね。
そうです、円筒形のコップに水を入れれば水はそのコップの形…円筒形になります。
さらに申し上げれば、水はどんな形にもなります。
相手の心を、気持ちを受け容れれば、水のようにこちらの心に入った相手の心はこちらの心の形になってくれ
ます。
こちらの心が狭ければ狭いほど、相手の気持ちは全て容れることは出来ません。
こちらの心がいびつであればあるほど、容れた相手の心もいびつに形を変えます。
逆に、こちらの心が大きく丸ければ受け容れやすく、容れた相手の心も丸く形を変えてくれます。

汲むとは受け容れること。
受け容れれば、相手が何を求めているのかが、やがてわかります。
ただ覗くのではなく、「その人の為に何が出来るか」で受け容れればもっと早いでしょう。

この迷い苦しみの中で生きるわたしたちをとても憐れんで、もう迷わなくて良い世界、苦しまず真のやすらぎ
の世界に生まれさせよう、と願い立たれた法蔵菩薩様。
この修行の前に、師である世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまは法蔵菩薩にこう言われています。
「そなたの実現しようとしている一切衆生を救うということは、海の水を一升枡で汲み上げるようなことだ。
汲み上げても汲み上げても海の水は減らない。その命が尽きても終わらない。しかし、それでもどれだけ時間
が掛かろうとも、やり続ければやがて海の水は汲みあげられて干上がり、現れた海底の泥から真の宝物が現れ
よう」と。
そしてついに法蔵菩薩は修業をやり遂げお浄土を建立して下さり、自らはその修行で得た功徳を南無阿弥陀仏の
六字に全て込め、阿弥陀仏というお念仏の如来さまに成られました。
南無阿弥陀仏のお念仏は万徳円満と言われ、お念仏に全ての功徳が備わっています。
なまんだぶ、なまんだぶとお念仏申す度に、私たちは阿弥陀さまの功徳を全身でシャワーのように浴びさせて
頂いているのです。

わたしたち衆生には法蔵菩薩=阿弥陀さまのような修行はできません。
出来ない代わりに、少しでも先意承問…人の心を汲む意識は持てるはずです。
まあるい、まあるい心で受け容れていく。
自分の考えと違う、と思い否定してしまうと、自分の心はいびつになっていき、受け容れることができません。
少しでもまあるい、まあるい心でいることが、真に大切な心がけなんでしょうね。
ありがたいお手本を残して下さった阿弥陀さま、それを今の世のわたしたちに繋げて下さった親鸞聖人に心から
感謝したいです。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏


善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一 心(西守 騎世将)







 


 
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